京都東山北部 地図
Aエリア 「百万遍(ひゃくまんべん)」界隈。
上記地図の最北(上部)に位置している「百万遍(ひゃくまんべん)」界隈。
ここは京都大学を中心に京都きっての学生街として栄えた場所でもあります。
この地域は学生運動が最も激しかった1967年9月20日に通りかかった学生達に閉鎖されたという事態もあったとか。しかし、車が慌ただしく行き交う今日の百万遍の交差点からは、そんな面影は微塵にも感じられませんが…。
東大路通りと今出川通りの交差点を中心に、学生達に愛された店や古書店が建ち並び、なかには戦前からの歴史を誇るところも少なくありません。学生街の移り変わりを間近で見つめてきた店が少なくないのも百万遍ならでは。中でも京大西部講堂は、現在でも若者文化の拠点的存在として健在です。
ちなみにこの「百万遍」とは、京都大学本部の西北角とも接している東大路通りと今出川通りの交差点一帯を地元では「百万遍」といいます。ただし、これは通称であって正式な地名としては存在しないのですが、バス停の名前にもなっているところが面白くまた京都らしいところでもあります。
ここを百万遍と呼ぶのはこの交差点にある知恩寺に由来しています。古い由緒ある浄土宗の寺で法然上人が念仏道場としたところで、移転を繰り返し現在地に再建されたのが寛文2年(1662年)のこと。この寺を百万遍と呼ぶようになったのは、元弘元年(1331年)頃、都に悪病が流行り、住職だった善阿上人が百万遍の念仏を唱えたところ悪病が治まったので、時の天皇・後醍醐天皇が百万遍の山号をうけたことによるそうです。
Bエリア 何人もの人が歩き、思いにふけった鹿ヶ谷疎水ぞいの哲学の道。
(上記地図には「哲学の道」は記載されていませんが、位置としては鹿ヶ谷疎水にそって「哲学の道」があります) 哲学の道を散歩していると、日頃は世の波に消し飛びそうな繊細な心の声を聞くことができるかもしれません。 そしてこの哲学の道の東北には銀閣寺(慈照寺)があります。 銀閣寺の上層は唐様仏殿様式で、下層が書院造となっている三重構造の楼閣は東山文化の名建築であり、西の金閣寺に対して東の銀閣寺は静寂を感じることのできる寺院です。 哲学の道から少し東、都会の喧騒から離れた深い山中のような所に善気山法然院(ほうねんいん)萬無教寺が門を構えています。 そもそも東山三十六峰のひとつで、法然上人の縁の地でもある善気山に建てられた念仏道場が始まりという法然院は、 春は椿(つばき)、夏は紫陽花(あじさい)、秋は楓(かえで)などの紅葉、そして冬は雪景色と四季折々風情のある姿を見せてくれます。
金戒光明寺黒谷の北西にある丘陵が吉田山。別名「神楽岡」とも呼ばれ、古くは在原業平の歌に歌われた由緒ある山なのです。 標高は約100mではあるが、市外を始め遠く西山を望むことができ、学生や市民の憩いの場として親しまれています。 山頂は吉田山自然公園になっており、西側の山腹は吉田神社の境内になっています。
Cエリア 哲学の道の南起点近くにあるのは若王子神社(にゃくおうじじんじゃ)。
永暦元年(1160年)、後白河法皇が熊野権現(くまのごんげん)を勧請して建立した若王子の鎮守社である若王子神社は梛守(なぎまもり)。すべての苦難をなぎ倒すお守りとして親しまれています。
平安遷都を記念して明治28年に建設された平安神宮。
ここは京都三大祭りのひとつ「時代祭」でもよくしられています。 社殿は平安京大内裏朝堂院の形式を模したもので、朱塗りの柱と緑の瓦のコントラストが美しく脳裏に焼き付きます。 また社殿の裏手には神苑が広がり、歌が記された札のついた樹木が植えられています。 春には南神苑のしだれ桜が見事な花を咲かせ訪れる人の目を楽しませてくれます。
Dエリア 永観堂
永観堂の出入り自由の境内は池泉回遊式の美しい日本庭園で、多くのモミジが植わっていて秋は紅葉が美しい。 顔が横を向いている本尊や、多宝塔からの京の景観も素晴らしく、こちらは拝観料を要します。
南禅寺
日本三大門のひとつにあげられている東山沿いに位置する南禅寺の三門は、 歌舞伎の中で石川五右衛門が「絶景かな~」と見得を切ったことで知られ、上からの眺望はすばらしいものです。 文永元年(1264年)に亀山天皇の離宮として造営、後に禅林禅寺と改められました。 京都五山の上位に列する大寺で、三門を中心に法堂、方丈などの大迦藍が建ち並び、 境内は庭園の枯山水の簡素な美も時間をかけて鑑賞してみてください。 ちなみに南禅寺付近は京料理「湯豆腐」と伝統の味を守る老舗が立ち並ぶことでも有名です。一度は是非ともご賞味ください。
琵琶湖疎水(びわこそすい)
明治の面影を残す琵琶湖疎水(びわこそすい)、それにまつわる建築物を訪れてるのも一興です。 琵琶湖疎水は大津の三保ヶ崎から長等山トンネルを抜け、山科に出て2つのトンネルを抜けて蹴上(けあげ)へ。 ここから二手に分かれて一方は岡崎から鴨川へ、もう一方は南禅寺をまわって銀閣寺、そして堀川まで続く総延長30kmにも及ぶ水路です。 今では疎水沿いに咲く桜や水路閣、インクライン、哲学の道といった観光名所になっていますが、 昔は舟が行き交う水運としての役割や、動力源としての水力発電(現在も稼働)などに使われ、 近代産業都市・京都へ導くために貢献した水路でした。 明治2年(1869年)に都が東京に移り、衰退した京都の街を活性させようと京都府知事北垣国道が疎水計画を推し進めました。 設計・工事主任は当時20歳工学生田辺朔郎で、明治18年(1885年)に着工し4年8ヶ月後に完成。 これにより産業が復興し近代化の道を切り開き、京都に日本初の電車が走ったのです。
その他この一帯は、明治のモダニズムの建物、美術館、図書館などカルチャー色に満ちています。